続・稽古で大切にしている事

続き

『身体感覚の表現を躊躇わない』


稽古会や講習会では、たま〜に

「できるかな」

「教えられた通りできるかな」

「他の人はどうかな」

「私はどうせ〇〇だから」


とやる前から、無意識的に出来ない要素を探している方もいる。


やってもいないのに何故無理とか言ってしまう!?周りと比べてもあなたはあなたの人生だよ!教えられた通り一発で出来たら、私は要らないよ笑!と思ってしまう。



ただ、私自身その部類に入るので、よーーく分かる。もともと、自分の可能性を悉く脳内でシャットアウトしていたので、未だにその片鱗が顔を出してくる。ただ、昔と違って今は顔を出してきた事に気付いて対処ができる。あ〜また顔を出してきてよく来るね〜笑、といった具合。これはもう性なので、消そうと意固地にならずに上手く付き合っていく。これも身体術やヨガで学び得た事。


ヨガでも雑念や思考が湧いてきたら、それをモグラたたきの様に潰していくのでは無く、湧いてきたなぁ位でまた対象に戻るような流れの方がいいと感じている。モグラたたきをするとモグラに対象を向けるので執着してしまう事になる。そうなればモグラの思うツボなのである。


出来ない要素を探してしまったり、他の人と比べたりなぞろうとするのは、1つはやろうとしている事が未知なる世界やものだからだと思う。誰だって未知なるものは不安で怖い。ただ、身体術やヨガに限って言えば、自分の身体でどう感じたかが大事。


身体ってここにあるじゃないか!
これのどこが未知なんだ!


と思われる方もいらっしゃるかもしれない。
確かに肉体としての体は、近代の研究により明らかになってきたかもしれない。
しかし、感覚としての身体は未だによく分からないのだと思う。ヨガでも何千年に渡り様々な手法で身体の見方を伝えてきた。武術でも然り。


これは

「身体感覚の表現を躊躇っていない」

から語り継がれてきた事だと思う。


丹田やチャクラは、本当にそこにあると感じた人がいたから今まで言われてきた。
それは先人の知恵であり、恩恵であり、指標である。


偉大な先人と比べる気は毛頭ないが、どんな段階であれ、自分の身体感覚の表現を躊躇わないで欲しいと思う。セオリー通りの答えや、知識で知っている事を言っても始まらない。


やってみてどう感じるか?

言葉に出してアウトプットすると、意外に自分でもこんな事を思っていたのかと思うような時がある。


相手の感覚の表現を聴いて、こういう考え、発想もあったのかと刺激になる。

何となく思った事を言われたら、凄く腑に落ちて色々と納得する。

と言ったこともよくある事だ。

そういう訳で、「身体感覚の表現を躊躇わない」でほしいという事をお伝えしたい。

もちろん全くの自由から自由は生まれない。
ある程度の縛りがあるから自由を感じられる。なんでも言えばいいというものではない。


やる前にあーだこーだ言えばいいのではなく、やってみてどうか?そして稽古していく毎に、感覚の下地はできてくる。感覚の下地が出来てくると、独自性が生まれ、また新たな感覚が生まれてくる。


稽古会や講習会では、私自身参加者のお話を聞く事が多い。たまにどちらが教えているのか分からないこともある笑。その時、その瞬間にやってみて感じた事を表現するのはある意味ライブである。そのライブが生きる実感を与えてくれるし、欣びを感じさせてくれる。そういった空間、場を作っていけるように精進していきたい。


終わり