稽古で大切にしている事

稽古会や講習会をしていると、いつも参加されている方が、「気付いた事」や「普段の稽古が日常にどう活きているか」を話してくれる。


例えば

「歩く時に左右にブレて疲れやすかったが、重心が安定して疲れにくくなった」

「自分のやっているスポーツに応用してみたら、動きの質が変わってパフォーマンスが上がった」

「動きの感覚を伝えてもらったけど、自分はこちらの感覚の方がしっくりきた」
など。


こういった報告をして頂き、お伝えしたい事が伝わっていて良かったなといつも思う。ご本人が気付いた時の瞬間や表情は、他に代えがたいものがある。

私が稽古をしていく上で大事にしている事。

それは

「稽古を日常に活かす」

「身体感覚の表現を躊躇わない」

である。


稽古を日常に活かすとはどういう事か。
習い事をしていると、ストレス発散、体を動かしてスッキリ、日常と違う体験や動きで気分転換にもなる。
あ〜スッキリしたと、1週間が始まり、疲れが溜まり、習い事へ行って気分転換して、また1週間と繰り返し。

この場合の習い事は気分転換にはとても良いが、根本的に変わるきっかけにはなりにくい。

こういった例がどれ程あるか分からないが、私自身、他の分野で似たような経験をした事がある。


リラクゼーションの仕事をしていた時に、毎週来るお客さん。毎週来てくれるお客さんだからお店側としてはお得意様といった所だが、私はなぜ毎週来るのか疑問に思った。


なぜか。


その時は「あ〜楽になった!体が軽い!」と言って帰っていくお客さん。しかし、1週間後には「またここが(以前と同じ所)が辛くてね〜」と来る。それが毎週。


なぜ楽になって気持ちよく帰っていったのに、たった1週間で元に戻るのか?


その時に感じた事は、


自分の体を人任せにしている


まるで自動車の点検のように。


「運動?時間がなくてね〜。忙しいんだよねー。」
仕方がないですね〜(感情こもってない)。



それからは色々と考えるようになった。
体は果たして現代人には都合の悪いものなのか。病気や怪我になり、自分の都合が悪くなったら医者や整体に行けばいい。都合良くいく世の中には都合が悪い体はいらないのか。体なんていらないんじゃーと言われているような気がして悶々としていた。

医者や整体が必要な事は言うまでもない。
念のため。


この当時、私は甲野先生の稽古会にすでに参加していたので、体をどこか他人事に見ている人達を多く見てとても残念な思いに駆られた事を覚えている。


ここでの問題は、本人が体をどう見ているか。そこが私が1番気になった所である。


武術の身体術やヨガを続けているのは、今思えばこの体験があったからだと思う。
自分の体に目を向けて、耳を傾ける。


疲れる、凝るのはしょうがないものだと思うのか、それともこれはどう工夫すると見直せるという目を持つか。

私は後者を選びたい。


習い事の話に戻ると、極端に言えば習い事は習い事。教室を一歩出たらまた来週(笑)。
それでも良いのかもしれないが、そこで学んで感じ取った事が日々の中でどう活きてくるか。動く事、佇まい、在り方、見え方、感じ方、触れ方、考え方。そこから世界が広がる気がする。


身体術は身体のこと、心のこと、感覚のこと、様々な事を身体を通して教えてくれる。身体が楽になる、効率の良い動きができるのは入り口で、それを通じて身体の持っている不思議さ、面白さ、欣びを感じてほしい。


稽古を日常に活かすとは、その不思議さ、面白さ、欣びを日々の生活の中で感じられる事なのだと思う。この事を少しでもお伝えさせて頂けたらと思う。
そして、感じられる事が「身体感覚の表現を躊躇わない」に繋がっていく。


つづく。