言葉
本日の「古武術の智恵で健康な身体づくり」は話が6割位になって、来てくださった方にはもう少し動いて欲しい気持ちとは裏腹に口から出任せ(出たままに任せる)が次々と出てきました。
最近は言葉について考えています。言葉というものの考え方は「分かる」事で認識していく。「分かる」の語源は一説には「分ける」らしい。つまり分けていく事で分かりやすくしていく。なるほど。確かに何か漠然とした対象よりも比較対象した方が物事は分かりやすい。例えば、私とあなた。こことそこ。男と女。太陽と月。例は合ってるかはよく分からないけどそんなところ。つまり言葉は見方によっては専門性を高め、より細かな情報や考え方を得る為の手段となっている。
インドのヨガでは、瞑想して悟りに至るまでの過程を徹底的に言語で説明しようと試みている。しかし悟った事についてはとても言葉には出来ない(らしい)ので、その直前の段階までご丁寧に先人達は説明して下さっている。これはインドの方の特質なのか、はさて置き仏教のお釈迦様もヨガ行者という括りのお一人であった。その仏教も中国へ行くにつれて禅になったりする。ところがこの禅は、言葉は要らないという(極力要らないという事なのかもしれませんが)。「不立文字」の考え方。これは中国の老荘思想等の影響を受けて、文化が溶け合いそうなったのかもしれませんが。日本にも禅寺はたくさんありますね。
こうなって行きますと、人々の文化や考え方の違いが出てきてとても面白いです。内容はすごく簡単に書いていますので、興味のある方は一度どの講習でもご参加頂けると嬉しいです。私の場合は昔っから考え癖があるために、なかなかこの「言葉の呪縛」というか言葉に囚われやすい性格なので、禅や老荘思想の方がすんなり入ってくるわけです。ヨガの本を読んでいると、すごく詳しく書いてある本に出会います。本当にまぁこれだけ事細かに書いてあって凄いなぁと感心させられてしまうのですが、いかんせん情報量が多い。それを全部らやんと悟れないぞと言われたら、あぁそうですかと返すしかないのですが。
武術の動きやヨガ、身体の事を生業としているものにとって学びは一生続きますが(どの道でもそうだと思いますが)、私の場合は情報量が多いと身体の感覚より思考の権力の方が勝ってしまう(笑)例えば足に意識をして動くという言い方があります。そうすると足を当然意識するわけです。ここまでは普通ですが、ここで思考の権力が勝ってくると足の意識が強くなりすぎて、他の部分の働きが疎かになったり、逆に強すぎたりします。意識しないように意識すると却って意識しない所に意識が行ってしまうこともあります。言葉遊びみたいですが、そういう事は普段生活をしていてもよくある事です。Aさんが私の悪口を言っていた。気にしないようにしなきゃ気にしないようにしなきゃ…、はっ!結局気にしてる(笑)。こういった言葉の呪縛や思考の権力にどう向き合って行くかというと、私の場合、結局は自分の一番楽な位置を見つけたり、動きたいように動く事に尽きるのです。もちろん言葉1つでその人の動きやパフォーマンスが劇的に上がる事も勿論ありますが。言葉を使っていくにも諸刃の剣という認識があって使っているのとないで使っているのでは大きく違ってきます。こういった話を今日はしてしまいました。ポカンとなってしまうかと思いきや、来ていただいた方には好評で、面白いなぁと感慨深げに仰っていたのが印象的でした。
本日もありがとうございました!私にとっても気付きが多くある講座でした。感謝です。
ようは言葉に囚われ過ぎず、自分の身体を通して学びを深めていった方が良いんじゃないのかなという事です。
まだまだ、話したい事はありますがそんなところですm(_ _)m
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