滝浴び

今年、滝浴びを5回ほどやりました。
滝行ではなく滝浴びと言っているのは、我流の作法でやっているのと、滝に親しみを持ってほしいとの想いからそう呼んでいます。
初め、滝浴びの投稿をあるところでしたら、問い合わせが何件かありました。
あ、意外とみんな関心があるんだなと思って話を聞いてみると、やりたいんだけど滝行のような厳かな雰囲気だと行きづらいという本音が聞けました。
もちろん、修験や修行の場としての滝行があるのは言うまでもありませんが、関心のある方がいてやりたいのも事実。
そんな時に興味のある方を呼んでやろうと思ったキッカケがありました。
それは、私が行く滝の滝壺や下流で子供たちが楽しそうに遊んでいた事。神聖な場である事は間違いないですが、憩いの場になっていた事に驚きを隠せませんでした。
もともとそう言った場所には畏怖の念を抱いていただけに、それまでの強すぎる固定観念が静かに崩れていくのを感じた瞬間がありました。
それから滝を浴びていくうちに今日、変化がありました。滝を浴びているとフッと自分がいなくなる感じがあったのです。その瞬間は滝の水圧も消え、滝そのものになっている感覚がありました。時間にして10数秒ほどだったのではないかと思います。
いつも滝浴びを説明する時に、この滝そのものになりきるという事はお伝えするのですが、私自身初めての体験でなんとも不思議でした。これはヨガでいう三昧にも通じた事だと思いますが、この時はただ真言を唱えていたのでそのような感覚になったのかもしれません。このような感覚もただそうなっただけの事で、なにも特別視する事はありませんが、感じた事の記録として残しています。こういった経験や体験を特別視してしまうと、それが目的になってしまうので注意が必要です。ここでもやはり結果的にそうなるのです。
ただ、滝と一つになれたような気がして、仲良くなれましたと内心少し嬉しかったです。
いつもは身体の使い方という観点から伝える事が多いですが、心の在り方の観点からも稽古をしていくとまた変わってくるのではないかと思います。それらは、両輪であり片輪でもあります。両輪とは身心一如。片輪とは片方に強烈な変化があった時、身を委ねている場合でないが故に強烈に喝を入れるためとしての片輪。
普段の稽古でも、捉え方を変えていったり、視点をかえてみたりした時に、心の変化を感じる事も感覚を育む事の1つではないでしょうか。
今回は滝を通して実感した学びが多かったです。